056 森 敦著「月山抄」
   “月山”へ思索のあとづけ 三好豊一郎(詩人)
出典:サンケイ新聞 昭和60年11月4日(月)
 本書「月山抄」に月山は出てこない。昭和四十八年に発表された小説「月山」は、昭和二十六年夏から二十七年春にかけての、山形県東田川郡朝日村大字大網の注連寺滞留の経験をもとに書かれた自伝的小説で、ここの村人たちの生活は、道らしい道もなかった昔の僻村の、素朴といえば素朴だが、閉ざされながら裟婆界のそれとつらなり、そこへまぎれ込んだ<わたし>に、いかにも幽界にうごめく人間存在を感じとらせる。ここから遠望される月山のなだらかな弧を描いて臥す山容が、死者のゆく山を感じさせるとしたら、死の安らかさへの願望においてだろう。月山は、黙々と生き黙々と死ぬ裟婆界の人間を、黙々と見つめる永遠なるものの象徴として隠顕するだけだ。
 永遠とは何か。それは時間の無限な延長ではなく、去・未・今三世の一瞬の凝結点である。生きながら死ぬことでその凝結点となる即身仏が、月山に対置されてあることは、偶然でない。
 小説「月山」における<わたし>は、雪深いこの山村の住民にとってはよそ者だが、娑婆界の打算を運び込んだ者ではなく、たくらむこともなすこともない抽象的な、あるためにだけあるような彼の存在の不可解さも、利害打算と無縁なことで村人を安心させる。そんな<わたし>は非実利的な、<実>に対するいわば<虚>の世界の住人といっていい。
 文芸とは<虚>において<実>を見る、その視点を獲得する一つの方法だろう。実利のシステムの中で人間は肉体を維持しているのだが、<生きる>とは、<実>にかかわる行為のみを内容とするのだろうか。
 現世に生きることを過去も未来も含めて確約する視点としての<一期一会(いちごいちえ)>も、
<虚>において<実>を見る心によろう。著者の人生遍歴は、かけがえのないその一瞬一瞬を噛(か)みしめることにあった。本書はその思索の切実なあとづけであり、ここでも月山はその思索のひだに隠顕する<虚>の象徴として、沈黙のなかにある。
(河出書房新社・一三〇〇円)
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