081 宗教的なものと小説
   『われ逝くもののごとく』 森 敦
岡松和夫
出典:海燕  昭和62年8月1日
 
 森敦『われ逝くもののごとく』を読んだ。
 主な舞台は庄内平野の南端と言ってよい加茂の町だが、作品を読み進むうちに舞台は大きく広がって、鶴岡や酒田からさらに北に向って、庄内平野の北端吹浦の町に及んでいる。また内陸に向ってたどると、作者の代表作『月山』の舞台となった注連寺も出てくる。『月山』が一冬を山寺に閉じこめられた男(作者に近い)の主情的な短篇的世界と言えるなら、今度の長大な作品は作者に近い語り手の姿も見当らないし、庄内平野に生きる人々の客観化が狙いかもしれぬと考えさせる。
 しかし、この客観化は多数の人物の錯綜した次々の死という経過から見て、庄内平野をして語らせているのではなく、庄内平野を使っての作者の哲理の表現という方が当っているのではないか。
 文体も近代の写実小説のそれではない。民話的なものである。
 加茂の町に十歳ばかりのサキという名の小娘がいる。中心人物というには幼な過ぎるが、あちこちの舞台に出没して、それなりの活躍をみせるから、この小娘の役割は何よりも見のがせない。
 
 サキのだだ(父親)は漁の手伝いをし、アブれれば日傭に出る。がが(母親)は魚をブリキの缶に入れ、背負い商いをして歩いていました。これまたアブれれば日傭に出る、謂わゆる浜のあば(女)なのです。嫁が年上というのは、サキの家の宿命のようなもので、ががが二十五で来たとき、だだは十五だったといいます。というのも、稼ぎ手が一日も早くほしかったからです。そうしなければ食っていけなかったからです。それをひとはみぞけながる(同情する)のですが、
 「年上のががはががで、年下にはねえうま味があるもんだ。おらァ経験から言うなださけ」
 じさまはどこ吹く風というようにそんなことを言って、ばさまに笑われるのです。
 
 こういう語り方で紹介されるサキの両親や祖父母についても、作品の大きな部分が割かれている。だから、サキの家族が作品の中心にいるという方が正確かも知れない。
 サキのだだは、貧しい家計を何とかしようと、北洋漁業に出ることも考えているのだが、そのうちに召集されてしまう。町をあげての出征祝いが行われる。そこにはサキの一家を中心とした町の人たちが多く描かれる。
 たとえば、サキのだだを傭って自分の漁船に乗り組ませていた人情家の船長(「親方」と書かれる)がいる。誰にも親切を尽す船長の妻(「親方のがが」と書かれる)もそうである。また、冠婚葬祭の時、顔を出しては挨拶したり演説したりする町の有力者の退役少佐(「上海」と書かれる)が出てくる。さらに、サキのだだに初めて女というものを経験させた「あねま屋のお玉」がいる。あねま屋とは遊女屋のことで、この女は滅法気立てがよいのだと繰り返し記述されている。
 あねま屋の経営者夫婦も「おやじの恵比須様」と「かあちゃんの大黒様」と書かれていて、大変に人がよい善良な夫婦とされる。
 さらに、加茂の町の最下層の生活者と言ってよい人たちも出てくる。例えば、火葬場で働いている「焼場のじさま」、そこへ燃料の薪を運んでくる「加茂のやんぞ」という名の老人がいる。
 そして、こういう名付け方自体が、この作品の内容を決定していると言える。つまり、善男善女とでも呼ばれるべき庶民の群像である。これらの人々が、言ってみれば親切の限りを尽してみせる。それがこの作品の見せ場の一つになっている。虫のごとく生き、虫のごとく死ぬと言われていた人たちに対する新しい祝福と言ってよいものだろうか。社会の下層に目を据えたのは、かつてのプロレタリア文学だったが、この作品は民話的な手法によって、これらの人たちに人生の輝きを与えているように見える。
 ヨーロッパ中世の宗教画を見る時、聖なる人々の頭上に金の環が輝いているのが分るが、それと同じょうに、この作品の人物たちにも金の環が輝いている。これは、近代小説と呼べないものである。この作品は現代の民話と言えばいいのか。町の上層階級の人々は「なになに様」と一般化されていて、「上海」のほかは、この作品に姿をみせることは殆どないが、それでも階級的な差別を蒙っていない。恐らく、大乗仏教を根本の哲理としているこの小説では、階級差なども大きな軸とはならないのである。
 この作品が大乗仏教の哲理を軸としているらしい証拠としては、「西目」と呼ばれるやっこ(乞食)のことを問題にするのが一番いいだろう。「西目」は加茂の海岸の洞窟を住居にしていて、小娘のサキなども親しんだやっこというが、長大なこの作品に一度も姿を見せない。作品の初めの方ですでに姿をくらましていて、このやっこの説く哲理はサキの口から語られる。西目はサキに、じさまやばさまが日に何度も称える光明真言についても、その意味を説明してくれたし、とりわけ「われ逝くもののどとく」という言葉を教えている。
 この言葉は、人間の無常を意味するのだろうが、作品のなかに充満するほどに多く使われている。人の生きている間は確かに短いが、親切の限りを尽すのが人の道だということだろうか。言ってみれば、この作品の護符である。私は、この作品を民話小説と考えるとともに、宗教小説ともみた。それは西目のような哲学的やっこが大事な役を勤めているからであるが、それと共に多くの人物の死が語られているからでもある。それも尋常ならざる死が目立つが、誰も死を恐れているようには見えないからである。
 最初に死ぬのは、サキのだだである。これは戦死する。やがて、サキのじさまも死に、じさまの葬式の日に、ばさまも死ぬ。じさまは息子の戦死を信じず、町の合同葬儀への参加も拒んできた。息子は鉄門海上人に祈って授かった子供なので、上人の霊の加護を受けているのだから死ぬはずはないと信じていたのである。この辺りに庄内の風土性があるらしいことはよく分った。生死の姿を、近代小説の表現してきた個人や社会やの原理からはずして、土俗性を帯びた人々の暮しのなかに入り、それを大乗仏教の哲理で見直せば、人間はずっと精気を帯び、笑いに満ちて見えてくるということだろうか。
 しかし、サキのだだに惚れていたというあねまのお玉が、戦後になって後を追うように首吊り自殺をする話などは、死の筋道がよく分らなかった。こちらが近代小説の原理(写実性)にこだわりすぎているのだろうか。民話ふうの書き方だから、惹きつけられ、巻きこまれ、わが事のように身につまされるという以前に、死が襲ってくる感じがした。
 私はこの作品を読み終った後、『月山』を再読した。『月山』では、人が死ぬことを「過ぎる」と書いてあった。勿論、この土地の方言で、会話のなかにしか出てこない。今度の作品では「過ぎる」は「逝ぎる」と書き改められている。しかも、会話文だけでなく、地の文にも使われている。恐らく、最も多用された語の一つであろう。
 さらに、今度の作品の終りの方(六七四ページ)で、龍覚寺の和尚が「死は永遠の生だ」と説いていたという話も出てくる。
 本当にそうなのかどうか、私には分らない。しかし、この言葉が作品のモチーフだったのではないかという気がしている。
 この作品は終りに近づいた辺りで書き方が全く変わる。初めに「作者に近い語り手の姿は見当らない」と書いたが、それは庄内平野の人々の錯綜する客観的表現の部分のことで、終りの方では『月山』と同じように「わたし」が登場する。「わたし」の登場で、作品はずっと読みやすくなっていると言える。そして、作者の分身である老年の「わたし」が、壮年の時代の「わたし」自身にめぐりあい、そのなかにのり移ってゆくという不可思議世界が描かれて作品は完結している。生命の泉のように尽きることのない仏教的な哲理の表現なのだろうか。
 
 降り来る雪に暮れ残った枯木のような枝先に、不思議に一枚小さな紅葉が舞っている。打ち砕かれた惨憺たる渓底から、次第に高くなる工事なかばの林道に足を向けると、こなたに背を向けた岩乗な作業服の男が現われました。ヘルメットをかぶり脚絆に身を固めているが、髪もすでに半白のようです。あれはいったいだれなのか。なぜわたしに背を向けているのか。それはわたしだからではないのか。雪はようやく本降りになってきました。鉄槌はすでにわたしの掌中にあります。満身の力をこめ、足下の岩石を打ち砕こうとして鉄槌を振り上げ、打ち下ろそうとして振り上げた鉄槌をしばし頭上に止どめると、不思議に歌が聞こえるのです。
 
   ああ、世は夢か幻か
 
 宗教的なものと小説は、その表現方法において相反すると考えがちな私にとって、この作品は大きな質問を逆に投げかけたと今は感じている。
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