084 近代小説を超えるもの
富岡幸一郎
出典:群像 昭和62年10月1日
〈略〉
 
 ここでは、ひとつの視点として、森敦の『われ逝くもののごとく』の出現が、これまでの近代日本文学という発想を根底から突き破る「小説」であることをいっておきたい。『われ逝くもののごとく』の内容についてはすでに書評(『文藝』秋季号)でふれたので重複は避けるが、庄内地方を舞台として、生者と死者が、老若男女が「われ逝くもののごとく」という不思議なコトバならざるコトバの無限交響のなかに集い、共時的に交錯する作品世界は、いわゆる「近代小説」という概念では覆いつくすことのできないものだ。
 それは、おそらく言文一致という近代日本文学の制度を揺がすような衝迫力をひめているのであり、“近代”の通時的空間すらも陵駕している。「近代」という時空を超えて生と死の境界をつらぬく物語宇宙が、『われ逝くもののごとく』でほ無数の渦巻となって果てもなく拡がっている。
 このような作品の出現こそ、狭義の「近代日本文学」というものに固執する発想を解体する。『われ逝くもののごとく』は、「超ジャンル」としての小説の可能性を(それはほとんど「宗教」をもとりこんでしまうものとして)最大限に示した「小説」である。そこでは、いうまでもなく近代的な自我は完全に破砕される。そして、それはある意味では、もっとも若い世代の島田雅彦が、『天国が降ってくる』などの作品で徹底した自我崩壊をテーマにして、これまでの日本の近代小説に底流していた「何かを守る」という観念とは全く異質な方向性をあらわした場所に、大きな環をえがくようにつながっている。
 この環のなかにこそ、これまでの近代日本文学とは異った、新しい文学の光景があるのではないか。「純血主義」の文学が衰弱するなかで、近代小説の固定的な概念を超えてゆく円環がようやく見えはじめてきたように思われる。
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